バルカン蹴球旅

セルビアをはじめ旧ユーゴ諸国で活躍する日本人サッカー選手にインタビューをしながら旅をしています。彼らが何を見て何を考えたのか、異文化の中で挑み続ける彼らの想いを丁寧な取材で紡ぎ出します。

人生は1回だけ、挑戦したい。田中宗一郎選手(FK Slavija Sarajevo)ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナ。現日本代表監督ハリルホジッチ、またオシム元監督の出身国である。近年、サラエボ旧市街に観光客が増え、世界遺産に登録されているモスタルなどの知名度も徐々に高くなってはいるが、1990年代前半のボスニア紛争当時のイメージは未だに日本国内で強く残っていることだろう。日本人にとってはまだまだ未知の国だ。

2017年11月、首都サラエボ近郊の東サラエボで、唯一の日本人選手としてプレーする田中宗一郎選手をFK Slavijaのクラブハウスに訪ねた。 

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これまでの生き方では越えられない壁があると気づいた。

田中宗一郎が海外でのサッカーキャリアを開始したのは20歳の時、シンガポールだった。カンボジア、フィリピンで東南アジアのサッカーを経験し、その後はヨーロッパに活躍の場を移す。モンテネグロラトビアを経て、ボスニア・ヘルツェゴビナにやってきたのが2017年2月。

「東南アジアでは初めて海外のサッカーを経験して、試合にも出て充実していましたが、目指していたヨーロッパに早く行きたかった。2年間アジアで過ごしたあと、満を持してモンテネグロに来て、1部リーグのFK Iskraと契約できました。でも、ヨーロッパの1部リーグの選手はアジアとはフィジカルが全く違いましたね。それでもやれるという思いもあったけれど、難しいなという気持ちの方が大きくて。うまくチームに入ることができなかったんです。それで、すぐに切り替えて次の国へ、という選択をしました。

 でも結局、次に行ったラトビアでもそれほど納得のいく結果は残せませんでした。もちろんその当時は必死だったし、この選択が正しいと思ってやっていたのだけど、何が問題なのかを考えたとき、ひとつの場所で結果が出るまで我慢してがんばるという忍耐力が、この壁を越えるためには必要なのではないかと気づき始めたんです。次はそこでいずれは1部リーグでプレーできるようになるまでがんばろうと思って、ボスニアに来ました。」

 ボスニア・ヘルツェゴビナ2部のFK Slavija Sarajevoと契約し、すぐにスタメンで起用されるようになる。順調なスタートだった。目標に掲げていたとおり、このチームで1年間活動することもできた。

「ウィンターブレイク後の加入だったので、当初は半年契約でした。ハーフシーズン終わったあとのほぼできあがっている状態のチームだったにもかかわらず、すぐにスタメンで使ってもらえるようになり、試合にもほとんど出ることができた。それでシーズン後にもう1年契約を延長することができました。プロになってから今までひとつのチームで契約を延長したことがなかったので、それに関してはすごく嬉しいという気持ちがありましたし、運もタイミングも良かったかなと思っています。

 これまで僕、なんだかんだ人に助けてもらってきたと思うんです。でもそれって、やってもらっていたときは気づかなかった。今、誰も頼る人がいない、もちろん日本人も誰もいない一人の状況になって、どれだけまわりに助けてもらってきたか、大事なありがたいことだったんだと、そこは日本にいたときとは考え方が変わったところですね。」

現地の言葉で話す努力も、サッカー選手として必要なことのひとつ。

日本人サッカー選手が海外で活躍する際に、言葉の壁は大なり小なり必ず問題になる。特に、ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとするバルカン半島の国々において、英語の通用度はそれほど高いわけではない。彼曰く「海外に出る前は決して英語が得意ではなかったし、そもそも自分はコミュニケーションを言葉でそれほど積極的にとるタイプではない」とこのことだったが、それは少なからず選手生活にも影響する。

「東南アジアで所属していたチームは基本的に日本人主体のチーム構成だったので、言葉が通じないことをそこまで不便には感じなかったのですが、ラトビアに移籍して完全に日本人ひとりになり、すべてのことを自分でしなければならない状況になりました。でも、言葉が話せないと、何もできない。海外3年目にして初めて、何か言葉をしゃべらざるを得なくなって、この段階でやっと英語がまあ話せるようになりました。でも今、改めて考えてみると、英語ではなく現地のラトビア語を話すようにしていれば、ピッチ内外でもう少しチームメイトとの距離が縮まったかもしれないとは思います。

 ボスニアに来てからも、最初の半年はボスニア語が話せないのは当たり前だとチームメイトも思っていたようで、何も言われなかったけれど、このシーズンが始まってからは、半年もいるのに話せないのはなんでだ、という目で見られるようになる。この時期は怪我をしていたこともあって、チームの中に自分の居場所を作るのが難しかった。コミュニケーション不足だったなと思いますね。」

結果ばかり追い求めても、そんなに簡単に結果なんて出るもんじゃない。

FK Slavijaでの1年を振り返ると、最初の半年はスタメンでほとんどの試合に出ていたにもかかわらず、その後は怪我に泣かされ続けたハーフシーズンだった。その上、日本人選手が体格のハンデがあるヨーロッパで活躍し続けるのは簡単なことではない。それでも、世界を相手に「結果」を出して挑戦し続ける、という想いは変わらない。

「2年前にヨーロッパに出てきた頃は、試合に出続けてゴールを決めて、というのが自分の考える「結果」でした。でも、結果、結果、と結果だけを求めてヨーロッパに出て行っても、そんなにすぐ結果がついてくるものでもなかった。かといって、この歳でサッカーの技術が劇的に上がるという段階でもないですし、伸びていないと自分で気づいたときは、焦りましたよね。でもそこで、何も変えずに今までのままサッカーをしていてもダメなので、結果へのアプローチの仕方を変えてみることにしました。

 ちょうどその頃から、身体の動かし方のトレーニングに取り組んでいて、今はサッカーの技術を磨くというよりは、身体をより適切に動かせるように、それがより試合の中で発揮できるように、ということを常に考えてやっています。身体がうまく動かせなければ、サッカーのレベルも上げていくことができない。そう思って取り組んできたことが試合の中で発揮できた時、それが結果として出てくるだろうと、最近は考えています。

 そういう意味で、このハーフシーズンに、ヘディングでコーナーキックを合わせたゴールを2点取ったんです。今までヘディングでまわりの大きい選手に競り勝ってゴールを決めるなんてこと、ほとんど経験がなくて。身体の動きが良くなって、ジャンプ力も上がっていると実感しています。この半年は怪我もあって、試合データ的には数字は良くないかもしれないけれど、最初のハーフシーズンより要所要所、出た試合は結果を残せている、プレー的には良くなっていると手応えを感じていますね。」 

ぐちゃぐちゃだったのが少しずつ整理されてきて、どうすればいいか分かってきた。

ウィンターブレイク前の最終節はアウェイゲーム。レギュラー格のボスニア人選手が累積で出場停止になり、怪我もあってこのところスタメンを外れていた田中宗一郎に見せ場がやってきた。試合は双方決定機がないまま前半が終わり、後半67分にSlavijaが先制。しかし、83分にゴールを許して追いつかれ、1-1で終了した。

「チームの実力的にも勝たなければいけない試合だったので、無失点に抑えられなかったのは残念です。反省点を整理して、次につなげたいですね。」

 この冬、彼は次の新天地を求めて移籍準備をしている。この1年は彼にとって、今後も世界でプロサッカー選手として生きていくための大切な礎になったはずだ。年が明けて暖かくなる頃、さらにパワーアップした姿がピッチで躍動していることだろう。 

「まずはいちばん近い目標として、1部リーグでレギュラーとしてプレーしたい。僕はもともと、うまくいかないことがあったりしてもそこに対して向き合えないんです。そこが選手として伸びてこない、今ひとつ結果が残せてこなかった原因だということに、うすうす気づいてはいたんですけど。このままじゃダメだから、ぜったい上に行けないから。

 これまで怪我も多かったんですが、今後どうしていけばいいのかということも、この半年でわかってきた。それから、今まであまり真剣に取り組んでこなかったコミュニケーションのことも、精神的な面って怪我に影響してくるものなので、上に行くために全部つながってくる、変えていかなきゃいけないところだと思っています。サッカー選手としての年齢的には確かに若くはないですが、意識を高く持って成長していければ、まだ遅くない。がんばりたいです。」

田中宗一郎(たなかそういちろう)選手

1993年4月30日生まれ。三重県津市出身。184cm、78kg。