バルカン蹴球旅

セルビアをはじめ旧ユーゴ諸国で活躍する日本人サッカー選手にインタビューをしながら旅をしています。彼らが何を見て何を考えたのか、異文化の中で挑み続ける彼らの想いを丁寧な取材で紡ぎ出します。

7か国目の決意、アジア最速CBを目指して/田中宗一郎選手(Ulaanbaatar City FC)モンゴル

ボスニア・ヘルツェゴビナの東サラエボ田中宗一郎を訪ねてから1年半。彼は今、モンゴル1部リーグでプレーするプロサッカー選手として、首都ウランバートルにいる。2019年6月、海外7か国目となった26歳のセンターバックを取材するため、モンゴルへ飛んで話を聞いた。

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もうひとつ上へ行くための決断を

「2017年末にボスニアでのシーズンが終わった後、2018年は1年間、日本で過ごしていました。ボスニアでプレーしていた頃から考えていたことなんですが、もうひとつ上へ行くために、何かを変えなくてはいけないとずっと思っていて。シーズン終わりに帰国したタイミングで、以前から良くしてもらっている先輩に、身体を診てもらうトレーナーを紹介してもらったんです。いま思うと、まさに運命的な出会いでしたね。」

「僕、育成年代までは脚が速いことがストロングポイントのひとつだったんですが、19歳の時に怪我で手術をして、それ以来まったくスピードが出なくなっていたんです。それでも、フィジカルでなんとかカバーしてプレーしていました。そこを、2017年末にトレーナーに1回診てもらっただけで、手術前以上のスピードが出るようになって。奇跡かと思いましたよ。この人に診てもらえば、なにか壁を越えてもっと上に行けるんじゃないかと、そう思って2018年は日本でトレーナーと身体を作り直すという決断をしました。」 

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2014年20歳の時にシンガポールへ渡って以来、プロサッカー選手としてアジアとヨーロッパ6か国でプレーしてきた。常識的に考えるならば、24歳の段階でプロとしては所属チームを持たずに日本でトレーニングをするなど、あり得ない選択であろう。それでもなお、上に行くためには必要な決断だと、そこに迷いはなかった。

実際、1年半前に東サラエボで会った田中宗一郎と、いまウランバートルで観る彼は、体つき、足元の技術、プレーの細部、話し方に至るまで、まるで別人のように見える。なにより、180cmを超える体躯から繰り出されるスピード感には見応えがあり、日本でのトレーニング効果は歴然だった。

「夢を見てるんじゃないかというような感覚でしたね。その人に診てもらうと、どんどん身体が変化していって、やればやるほど速く上手くなっていくんですよ。具体的には50mが6.8秒から6.1秒に、100mは正確に測っていませんが11秒の前半で走れるようになりました。今はプロサッカー選手として、脚の速さは僕のいちばんの自信になっています。サッカースキルに関しても、以前はフィジカルで勝負していた部分を、頭で考えてプレーできるようにトレーニングを積みました。だから、球際の激しさは逆に減って、ポジショニングでディフェンスできるようになっていると思います。」

失敗という概念は僕の頭にはない

しかし、2018年シーズンを日本のアマチュアチームで過ごしていたこともあり、2019年が明けた段階でも新しいチーム探しは難航していた。身体も技術も格段に良くなっているはずなのだが、まずそれを披露する機会が圧倒的に足りない。その結果、評価して獲得に動いてくれるチームがなかなか現れない。

「でも、僕には失敗という概念がないんですよ(笑)。これからもサッカーを続けていくために身体を作り直す決断をしたことは絶対に間違っていなかった。あの時期は、周りにはずいぶん心配されましたが、僕自身はサッカーを続けてさえいればそれが証明できると信じていました。」

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そんな折にモンゴル1部のウランバートルシティFCからオファーが届き、プロサッカー選手として海外7か国目の地はモンゴルと決まった。

「モンゴルのサッカーはまだまだ発展途上という印象ですが、そのぶん外国人選手の能力の高さがチームの成績に直結するので、やりがいはありますね。特に今のチームには実績も経験も能力も高い外国人選手が揃っていて、一緒にプレーする上で自分にとってもプラスになっています。センターバックを組んでいるのはフランス1部のモナコやナントでプレーしていた元セネガル代表選手で、彼からはポジショニングの修正を常に受けて、こうやって守るんだよっていうのを教えてもらいながらやってます。スペイン2部でやっていた経歴のあるボランチのスペイン人選手からも、攻撃で上がって行くタイミングとか、ボールの持ち運び方とかを教えてもらってますし、自分でも成長を感じているところです。これまでいろいろなチームでプレーしてきましたが、そういう意味では今まででいちばん、ここに来て良かったと思っているかもしれませんね。」

ウランバートルでの生活も、住みやすくて気に入ってます。シーズンが始まるのに合わせて3月の終わりに来ましたが、寒くて耐えられないほどではなかったし、今も暑すぎるわけでもないですし。街の雰囲気はアジアというよりは東欧と似ていると思いますが、東欧にいたときはアジア人に対する視線というのを常に感じていました。でもここではそれが全くない。モンゴルの人と日本人は顔立ちがとても似ていますからね。それに、モンゴル人はほんとに優しいです。もちろん時には、自分の間違いを絶対認めないというようなプライドの高さもあって、物事がややこしくなることもありますけど(笑)。個人的には今まででいちばん住みやすい街だと思っています。」

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サッカーに限らず海外で生活するということは、日本国内と全く同じ生活をというわけにはいかず、必然的に様々な制約を抱えることになる。それはある程度仕方のないことで、その制約とどう付き合っていくかが海外日本人選手としての成功を左右すると言っても過言ではない。日本での1年間はトレーニングに加えて厳しい食事制限で身体を整えていた田中だったが、海外ではそれはほぼ不可能だ。しかし、東南アジアも東欧も経験して海外生活5年目に入った26歳は、先々で遭遇するときに理不尽な制約の中でも生きぬく術を身に付け、モンゴルリーグでトップクラスの選手として評価を得ている。 

「確かに日本にいたときは、家族の協力もあってかなりの食事制限をしていました。でもここでは、手に入る物も入らない物もありますし、その中で完全に自炊でというのは難しいので、今は何でも食べることにしています。絶好調というわけにはいきませんけど、それはそれでなんとかやっていくのが海外だと思っているので。」

「ビザの問題などもあって、モンゴルでサッカーが続けられるかどうか、という状況になりかけたこともありましたが、選手としてはチームメイトからもスタッフからも、きちんと見て評価してもらえているので、そこはありがたいですね。僕のいちばんの特徴のスピードはもちろんですが、センターバックなので、ここまでの失点の少なさが評価の高さにつながっていると思っています。」 

アジア最速センターバックを目指して

以前、田中に「サッカー選手としてどこを目標に続けていきたいか」と尋ねてみたことがある。「満足するまではやりますよ」と彼は言った。聞き手として何事も突き詰めなければ気が済まない性格から「何をもって満足するのか」と畳みかけて尋ねた。「身体が動かなくなったら、やりきったと満足して辞めるんじゃないかと。」

おそらく彼にとって「目標」とは、誰かに評価されることや、どこかにたどり着くことではないのだろう。モンゴルでの評価はあくまでも次のステップへのスタートラインに過ぎない。

「もちろん、モンゴルリーグで評価されたことで満足なんかしていませんよ。まだまだ上を目指します。そのために去年1年、日本でトレーニングを積んで心身共に作り直したんですから。ただ、この国に来てひとつ達成できたと思っていることは、自分のプレーを映像に残せたということです。身体も技術も、脚の速さも格段に良くなっているという手応えはあるのに、去年はそれを評価してくれる人がなかなかいなかった。それは、そもそも誰も観てくれてなかったからだと思うんです。まずはプレービデオを作って観てもらわなくてはいけない。でも、プロ選手として所属チームがない状況で、自分のプレーを映像に残すには手段が限られていて、去年はその機会が多くありませんでした。それを、モンゴルリーグで試合に出て映像に残せた。プレービデオがあれば、脚が速くなったのも、身体も技術も以前とは全く違うのも、みんなに観てもらえる。モンゴルに来たことでやっと、これから自分が目指す場所に移籍するための準備が整ったと言えるかもしれません。今回、こうして試合の写真も撮ってもらえましたし、嬉しいですね(笑)。」

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田中が所属しているウランバートルシティFCは、強力な親会社を持ち、モンゴルリーグの中ではずば抜けた資金力を有するクラブである。その潤沢な資金を背景に、今年は特に強気の外国人選手補強をし、田中の活躍もあって現在1部リーグを首位で戦っている。

「今、自分には所属しているチームがあって、そのチームがリーグ首位にいる。それだけで、僕にとってこれは、これまでやってきたことのひとつの結果なんじゃないかと思っています。でも、外国人選手としての今の自分の立場を考えると、やっぱりシーズンが終わったときに優勝できていたら最高ですね。」

「え? 僕、優勝したいって初めて言いましたか(笑)? 実際のところ今まで、優勝できそうなチームにいるという経験があまりないんですよ。チーム状況が良くてずっと勝ち続けているような環境にいたこともあまりないですし。ずっと勝ち続けていると次は、優勝したいっていう、また違った面白さも出てくるものなんですね。今はたぶん、チーム全員が優勝したいと思ってると思いますから、自然と自分もそういう気持ちになりました。」 

聞き手として彼に話を聞くようになって1年半になる。プロサッカー選手としての田中宗一郎のキャリア約5年の中で、1年半という期間はそれほど長くはない。しかし、少なくともこの期間に、彼の口から「優勝したい」という言葉が発せられるのを、初めて聞いたように思う。そこにはなにか、日本でトレーニングをしていた1年間を経て、フィジカルの変化だけではなく、心身共にキャリアの新しい段階に入っていることさえも予感させる。

「モンゴルのシーズンは10月に終わるので、この冬の移籍でヨーロッパに戻れたらと思っています。日本で身体を作り直す前にもボスニア2部で試合に出ていましたが、いま思うと、よくあんな身体と技術でやっていたなと思いますね。メンタルの強さには自信があるので、ほんとうにそれだけでやってました(笑)。その前の2016年春はモンテネグロ1部に所属していましたが、残念ながら活躍はできませんでしたから、次はヨーロッパ1部リーグで活躍したいです。そのために、いまチームメイトに教えてもらっている攻撃面での貢献度を上げること、守備面のポジショニングのこと、その2つがもっと良くなれば、いつかベルギーやオランダのようなヨーロッパ中堅国も目指せるのではないかと思っています。」

「目標ですか? あまり目標を立てて先のことを考えるタイプではないんですよ(笑)。でも、脚の速さは絶対に誰にも負けたくないので、さらに磨きをかけて、アジア最速のセンターバックになること。それが今の僕の究極の目標ですね。必ず達成できると思っています。がんばります。」

田中宗一郎(たなかそういちろう)選手

1993年4月30日生まれ。三重県津市出身。184cm、78kg。

人生は1回だけ、挑戦したい。田中宗一郎選手(FK Slavija Sarajevo)ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナ。現日本代表監督ハリルホジッチ、またオシム元監督の出身国である。近年、サラエボ旧市街に観光客が増え、世界遺産に登録されているモスタルなどの知名度も徐々に高くなってはいるが、1990年代前半のボスニア紛争当時のイメージは未だに日本国内で強く残っていることだろう。日本人にとってはまだまだ未知の国だ。

2017年11月、首都サラエボ近郊の東サラエボで、唯一の日本人選手としてプレーする田中宗一郎選手をFK Slavijaのクラブハウスに訪ねた。 

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これまでの生き方では越えられない壁があると気づいた。

田中宗一郎が海外でのサッカーキャリアを開始したのは20歳の時、シンガポールだった。カンボジア、フィリピンで東南アジアのサッカーを経験し、その後はヨーロッパに活躍の場を移す。モンテネグロラトビアを経て、ボスニア・ヘルツェゴビナにやってきたのが2017年2月。

「東南アジアでは初めて海外のサッカーを経験して、試合にも出て充実していましたが、目指していたヨーロッパに早く行きたかった。2年間アジアで過ごしたあと、満を持してモンテネグロに来て、1部リーグのFK Iskraと契約できました。でも、ヨーロッパの1部リーグの選手はアジアとはフィジカルが全く違いましたね。それでもやれるという思いもあったけれど、難しいなという気持ちの方が大きくて。うまくチームに入ることができなかったんです。それで、すぐに切り替えて次の国へ、という選択をしました。

 でも結局、次に行ったラトビアでもそれほど納得のいく結果は残せませんでした。もちろんその当時は必死だったし、この選択が正しいと思ってやっていたのだけど、何が問題なのかを考えたとき、ひとつの場所で結果が出るまで我慢してがんばるという忍耐力が、この壁を越えるためには必要なのではないかと気づき始めたんです。次はそこでいずれは1部リーグでプレーできるようになるまでがんばろうと思って、ボスニアに来ました。」

 ボスニア・ヘルツェゴビナ2部のFK Slavija Sarajevoと契約し、すぐにスタメンで起用されるようになる。順調なスタートだった。目標に掲げていたとおり、このチームで1年間活動することもできた。

「ウィンターブレイク後の加入だったので、当初は半年契約でした。ハーフシーズン終わったあとのほぼできあがっている状態のチームだったにもかかわらず、すぐにスタメンで使ってもらえるようになり、試合にもほとんど出ることができた。それでシーズン後にもう1年契約を延長することができました。プロになってから今までひとつのチームで契約を延長したことがなかったので、それに関してはすごく嬉しいという気持ちがありましたし、運もタイミングも良かったかなと思っています。

 これまで僕、なんだかんだ人に助けてもらってきたと思うんです。でもそれって、やってもらっていたときは気づかなかった。今、誰も頼る人がいない、もちろん日本人も誰もいない一人の状況になって、どれだけまわりに助けてもらってきたか、大事なありがたいことだったんだと、そこは日本にいたときとは考え方が変わったところですね。」

現地の言葉で話す努力も、サッカー選手として必要なことのひとつ。

日本人サッカー選手が海外で活躍する際に、言葉の壁は大なり小なり必ず問題になる。特に、ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとするバルカン半島の国々において、英語の通用度はそれほど高いわけではない。彼曰く「海外に出る前は決して英語が得意ではなかったし、そもそも自分はコミュニケーションを言葉でそれほど積極的にとるタイプではない」とこのことだったが、それは少なからず選手生活にも影響する。

「東南アジアで所属していたチームは基本的に日本人主体のチーム構成だったので、言葉が通じないことをそこまで不便には感じなかったのですが、ラトビアに移籍して完全に日本人ひとりになり、すべてのことを自分でしなければならない状況になりました。でも、言葉が話せないと、何もできない。海外3年目にして初めて、何か言葉をしゃべらざるを得なくなって、この段階でやっと英語がまあ話せるようになりました。でも今、改めて考えてみると、英語ではなく現地のラトビア語を話すようにしていれば、ピッチ内外でもう少しチームメイトとの距離が縮まったかもしれないとは思います。

 ボスニアに来てからも、最初の半年はボスニア語が話せないのは当たり前だとチームメイトも思っていたようで、何も言われなかったけれど、このシーズンが始まってからは、半年もいるのに話せないのはなんでだ、という目で見られるようになる。この時期は怪我をしていたこともあって、チームの中に自分の居場所を作るのが難しかった。コミュニケーション不足だったなと思いますね。」

結果ばかり追い求めても、そんなに簡単に結果なんて出るもんじゃない。

FK Slavijaでの1年を振り返ると、最初の半年はスタメンでほとんどの試合に出ていたにもかかわらず、その後は怪我に泣かされ続けたハーフシーズンだった。その上、日本人選手が体格のハンデがあるヨーロッパで活躍し続けるのは簡単なことではない。それでも、世界を相手に「結果」を出して挑戦し続ける、という想いは変わらない。

「2年前にヨーロッパに出てきた頃は、試合に出続けてゴールを決めて、というのが自分の考える「結果」でした。でも、結果、結果、と結果だけを求めてヨーロッパに出て行っても、そんなにすぐ結果がついてくるものでもなかった。かといって、この歳でサッカーの技術が劇的に上がるという段階でもないですし、伸びていないと自分で気づいたときは、焦りましたよね。でもそこで、何も変えずに今までのままサッカーをしていてもダメなので、結果へのアプローチの仕方を変えてみることにしました。

 ちょうどその頃から、身体の動かし方のトレーニングに取り組んでいて、今はサッカーの技術を磨くというよりは、身体をより適切に動かせるように、それがより試合の中で発揮できるように、ということを常に考えてやっています。身体がうまく動かせなければ、サッカーのレベルも上げていくことができない。そう思って取り組んできたことが試合の中で発揮できた時、それが結果として出てくるだろうと、最近は考えています。

 そういう意味で、このハーフシーズンに、ヘディングでコーナーキックを合わせたゴールを2点取ったんです。今までヘディングでまわりの大きい選手に競り勝ってゴールを決めるなんてこと、ほとんど経験がなくて。身体の動きが良くなって、ジャンプ力も上がっていると実感しています。この半年は怪我もあって、試合データ的には数字は良くないかもしれないけれど、最初のハーフシーズンより要所要所、出た試合は結果を残せている、プレー的には良くなっていると手応えを感じていますね。」 

ぐちゃぐちゃだったのが少しずつ整理されてきて、どうすればいいか分かってきた。

ウィンターブレイク前の最終節はアウェイゲーム。レギュラー格のボスニア人選手が累積で出場停止になり、怪我もあってこのところスタメンを外れていた田中宗一郎に見せ場がやってきた。試合は双方決定機がないまま前半が終わり、後半67分にSlavijaが先制。しかし、83分にゴールを許して追いつかれ、1-1で終了した。

「チームの実力的にも勝たなければいけない試合だったので、無失点に抑えられなかったのは残念です。反省点を整理して、次につなげたいですね。」

 この冬、彼は次の新天地を求めて移籍準備をしている。この1年は彼にとって、今後も世界でプロサッカー選手として生きていくための大切な礎になったはずだ。年が明けて暖かくなる頃、さらにパワーアップした姿がピッチで躍動していることだろう。 

「まずはいちばん近い目標として、1部リーグでレギュラーとしてプレーしたい。僕はもともと、うまくいかないことがあったりしてもそこに対して向き合えないんです。そこが選手として伸びてこない、今ひとつ結果が残せてこなかった原因だということに、うすうす気づいてはいたんですけど。このままじゃダメだから、ぜったい上に行けないから。

 これまで怪我も多かったんですが、今後どうしていけばいいのかということも、この半年でわかってきた。それから、今まであまり真剣に取り組んでこなかったコミュニケーションのことも、精神的な面って怪我に影響してくるものなので、上に行くために全部つながってくる、変えていかなきゃいけないところだと思っています。サッカー選手としての年齢的には確かに若くはないですが、意識を高く持って成長していければ、まだ遅くない。がんばりたいです。」

田中宗一郎(たなかそういちろう)選手

1993年4月30日生まれ。三重県津市出身。184cm、78kg。